伊勢神宮街道を歩く

伊勢

豊かな海の幸・川の幸

「何事のおはかしますかは知らねども かたぢけなさに涙こぼるる」と、神宮を詠んだのは、西行法師だった。
お伊勢さまに憧れての参宮、街道の終着地でもある神地に入る関門、宮川の下の渡しを越えると御師(参宮の仕掛け人、今でいうツアーコンダクター)が出迎え、外宮(豊受大神宮)も真近。 外宮を先にお参りし、江戸の吉原、京都の島原と並ぶ三大遊郭として栄えた古市、間の山がある旧街道を通って約5キロ離れた内宮(皇大神宮)へ向かうのが昔からの習わし。
「一生に一度の」想いを遂げた人々の心境はいかに、「御饌(みけ)つ国」と万葉集の歌にも称賛された昔からこの伊勢の地は豊かな海の幸、川の幸をもたらしてきた。神饌の代表とされるあわびをはじめ、伊勢えび、的矢かきはいうにおよばず、サザエ、ワカメ、ウナギなど、まさに伊勢参宮はグルメの旅といえるかもしれない。

麻吉旅館/古市(伊勢市)

お陰参りと抜け参り

江戸期の庶民にとっては一生に一度の伊勢参拝が夢だった。
仲間と費用を積み立て、伊勢講をつくり、代表が参宮していたが、せめて一度という思いが爆発して集団参拝の「お陰参り」のブームが起こる。それだけではない。主人に告げずに、ふと使用人が無一文で姿を消し、参宮する「抜け参り」もおおいに幅をきかせる。旅費がなくても道中の家々から宿泊、米、手ぬぐいなどをていきょうされ、施行に助けられての道中だった。そこで、こんな唄も。
「おかげでするりとさ 抜けたとき・・・・」
雇い主も、お伊勢まいりとあっては文句もつけられなかった。

伊勢参宮街道

軒を連ねる切妻の民家、旧旅籠、一里塚、常夜燈など、かつての面影を今も点々と残す伊勢参宮街道。南勢の道路網は、伊勢神宮の鎮座する宇治山田に束ねられるように発達してきた。
伊勢参宮街道は、東海道と日永追分(現四日市市追分)で分かれ、白子、津、松阪などを経て山田に通じる海に沿った。
今も松阪の櫛田川を渡り、未婚の皇女『斎王』の御所だった斎宮跡付近の明和町を歩くと、参宮客を相手に食べもの屋、茶屋、旅籠、土産物屋などが並んだ、往時の賑った街道筋の光景を想像させて興味深い。この参宮路は、同時に地域の生活路でもあった。つまり、江戸橋(現津市上浜町)で伊勢別街道、津で伊賀街道、六軒(現松阪市六軒町)で初瀬街道、松阪で和歌山街道と合流しているからである。
お伊勢参りと生活と、それぞれに思惑を抱いての道中、街道の果した役割は大きい。

桑名

(一の鳥居・十楽の津・七里の渡し・米会所)

松平家十一万石の城下町として、そして東海道五十三次の四十二番目の宿場町として栄えた桑名は、尾張熱田より海路七里にて達したので、俗に「七里の渡し」と呼ばれている。ここは船着き場そのものが伊勢国一の鳥居でもある。伊勢国の玄関口である七里の渡しの大鳥居は、式年遷宮のたび伊勢神宮内宮・宇治橋前の鳥居を移すこととなっており、それは現代でも脈々と受け継がれている。
桑名は揖斐・長良・木曽の三河川が合するところ、川船輸送の荷揚げ場にもなっていて、遠近の物資が集まり、江戸天明年間には米会所が開かれて、大阪・堂島の米市に影響を与えたほどの力を明治までもっていた。もっとも、その活発な商業活動は室町期に端を発している。
伊勢・尾張を結ぶ交通の要衝として商人が往来、問丸(問屋)が発達、富裕な商人達が地侍として自治体をつくり、楽市・楽座を開くなどして町政を運営、町は自由港の性格を強めて「十楽の津」とも称された。

四日市

四日市(二の鳥居・日永の追分)

四の日が市日「四日市庭」

四日市は市場町、その都市的起源は応仁の乱の頃の1470年代に起きたといわれ、文字通り毎月四の日に市場が開かれるようになったのが、地名の起こり。
そして桑名につぐ東海道五十三次の四十三番目の宿場町として、また熱田神宮への渡津として次第に発展した。
市街南郊の日永は、東海道と伊勢参宮街道の分岐点で、日永追分と呼ばれ、伊勢路二の鳥居があり、常夜灯や道標とともに往時の名残を今に伝えている。

素麺の里・大矢知

西の山から冷たい鈴鹿おろしが吹く季節になると、四日市大矢知地区の農家の広い庭先に、冬の日差しを浴び、美しい白滝のような素麺がすだれ模様に干してある光景を目にすることができる。その昔、一人の旅僧がこの地に泊まり、もてなしの礼にその製法の秘伝を授けたことに始まるという、大矢知の手延べ素麺。
関西では「三重の糸」、関東では「伊勢素麺」として知られ、そのしまりのよい粉、豊かな風味は大矢知地区の気候と風土によるところが大きい。発酵、乾燥に適した冬の鈴鹿おろしと朝明川の清流が、二百年の伝統を誇る昔ながらの手練の技とあいまって、か細く、色白で肌の美しい上品な姿を生み、こしの強さ、滑らかな舌ざわりは天下一品、小麦のうま味も十分味わえる。

白子

伊勢湾に面した白子は、江戸向けの地元伊勢木綿や紀州藩の貢米積出港として、また宿場として旅籠が置かれ、伊勢商人の流通拠点として栄えた。

白塚の常夜燈(津市)
雲出川の常夜燈(旧三雲町)

松阪

松阪もめん(松阪市)

江戸に多きもの 伊勢屋、稲荷に犬の糞

安南(現ベトナム)から渡ってきた柳条布をもとに松阪の女たちの高い美意識と技術とで洗練されてきた「松阪木綿」。
正藍染めの糸を使い、洗うほどに深みを増す藍の青さを連ねた縞模様。その斬新な縞模様が粋好みの江戸っ子にもてはやされ、年間の売上五十数万反(当時の江戸の人工の半分)にもおよび、多くの豪商が生まれた。なかでも『現金掛値なし』の画期的な商法で大成功をおさめたのが三井高利(『越後屋』のちの三越)。
松阪商人は江戸店は手代にまかせ「主は、くににのみおりてあそびけり」といったふうに、故郷で風流を楽しむ粋人も多かったとか。一方江戸では「江戸に多きもの伊勢屋 稲荷に犬の糞」とまでいわれ、江戸の中期には伊勢屋という屋号の店が六百一軒もあったという。
他国の商人からは「近江泥棒、伊勢乞食」などと悪口をたたかれることもあったが、一方で「伊勢っ子正直」だという説もある。いづれにしても、乞食のように爪に灯をとぼす倹約と、正直一途の商法に徹したればこそ、伊勢屋は江戸の経済の中心になれたのであろう。

「松阪牛」は、近世の立派な松阪の顔の一つ。

兵庫・但馬系で、しかも雲出川と宮川のふたつの川にはさまれた地域で育てられた、処女牛だけにそのブランドが許されている。今でも破られていないのが、平成元年の「松阪肉牛共進会」で優勝した『よし号』の落札価格、何と4952万円をつけた。まさに牛肉の極上ブランドの名にふさわしい。
松阪木綿で成功した町場の豪商ばかりが松阪商人ではない。「伊勢おしろい」も松阪の誇る特産品。室町期より丹生でとれた水銀からおしろいを作り、全国に売りさばいた。本居宣長は松阪の商屋に生まれたが、学問に熱中し、医学の修行で京都に旅立ち、そして儒学、古典、歌文等を修める。名著『古事記伝』を著す一方で、鈴の音を愛した風流人でもあった。